WRITE THE LIGHT

溟犬一六のWEB小説

<< 引っ掛け薬 | TOP | 教えてあげましょう >>

気の利かないエレベーター

オーソドックスなショートショート

読了目安:10分


 夜の静寂をタクシーが裂いていく。馬鹿げた納期設定のおかげでこの二カ月、日付が変わるまで残業が続いている。休日も返上だ。使い潰されるプログラマとして我慢すべきなのだろうが、どうにも生きた心地がしない。独身で親も死んでしまった身としては、なんのために働いているのか、なんのために生きているのか分からなくなる。くたびれた背広も、もう随分クリーニングに出せていない。
 秋を迎え、風が冷たかった。月の無い夜に、私はぼんやりと、帰宅の道を外した。歩いた経験のない道をあえて選んだ。疲労から一秒でも早く横になりたい気持ちはあったが、横になれば一瞬後には朝がきてしまう。また会社に行かなければならなくなるのだ。
 十分ほどあてもなくさまようと、マンションの前に出た。五階、いや、六階建てだろうか。見上げた外観の頂上は暗闇に溶けている。築何年経っているだろう。見るからに古びていて、寒々しい感覚があった。
 近所にこんな建物があっただろうか。
 入り口は電子ロックも何も無く、開け放されていた。そこから漏れるぼんやりとした明かりは、どうしてか居心地の悪いものを感じさせた。すぐ横に歪んだ表札がある。このマンションの名だろう。「サイディーユ中津川」とあった。サイディーユ……意味は分からないが、この心持ちの悪い外観にしゃれたネーミングでは、どうにも滑稽に思えてならない。
 私は建物内へ進んだ。卵の臭ったような臭いが鼻をついた。横手に見える物置きらしきスペースに、膨れたごみ袋が山のように積んである。
 事務室か、あるいは管理人室らしきスペースも見られたが、当然この時間には誰もいない。私は一つ息をついて奥へと進んだ。
 天井にはくすんだ蛍光灯が灯り、羽虫が数匹舞っていた。突き当たり右手の壁に設置された住民用のポストは、ダイレクトメールやチラシで溢れ返っている。人がほとんど住んでいないのだろうか。いや、私の脳裏に先程のごみの山が思い出された。そうだ。人が住んでいなければごみは出ないのだから、当然人は住んでいるはずだ。まったく、住人や管理人は一体どういう神経をしているのだろう。そう思って自身の身なりへ目をやった。皺だらけの背広。自室に溜まったゴミの山を思えば、私に言う資格はない。
 ポストの反対側にはエレベーターがあった。エレベーターの扉の窓には暗闇が広がっており、その中心に数本、だらりとケーブルが下がっている。扉の横に光る数字は四階を示している。私は近付き、上へ向かうボタンを押した。
 一向に反応が無かった。故障しているのだろうか。私は引き返し、周囲を観察した。しかし、階段が見当たらない。
「裏手だろうか」
 非常時のことを考えれば、移動手段がエレベーターだけということはないだろうから、どこかに階段があるはずだ。私はうろついた。門の外から壁伝いに確認した。そうして分かったのは、この建物には階段が存在しないということだった。
 不思議に思いながらエレベーターの前に戻り、私はしばしの間、何をするでもなく立っていた。本来ならばもう眠っている時間だ。体がだるく、頭痛がした。帰らなくては。明日に備えなくては……。
 ふいに、四階を示すボタンが点滅した。扉の窓の中で、ケーブルがうごめく。
「下りてくるぞ」
 背中にじっとりとした汗を感じた。喉が渇く。誰かが下りてくる――その考えが、私の頭の中には何故か浮かばなかった。この、近付きつつあるエレベーターが無人であるという確信が、どうした訳か揺るぎないものとして、私の中にあった。エレベーター自身が意思を持って私を迎えに来た。そう思えてならなかった。
 扉が開かれる。やはり、無人だ。やけに明るく白い光で満ちている。無感動なつもりでいたが、私の鼓動は高鳴っていた。これは恐怖だろうか。いや、恐怖ではない。恐怖していれば、このエレベーターに乗り込みたいなどと感じるはずはないのだから。この感情は……期待だろう。
 この箱は、私をどこか遠くへ連れて行ってくれるかもしれない。今の生活を変えてくれるかもしれないのだ。
 私は吸い込まれるように乗り込み、ボタンを押そうとした。自動的に、四階を示す数字が点滅して、扉が閉まった。
 そうか、連れて行ってくれるのか。
 そんなことを考えながらエレベーターの震動を感じていると、突然に灯りが消えた。暗闇と共に動き続けるエレベーターの中で、私は溜め息をつき、首を振った。夢のようなことを考えてしまった。私には割り当てられたタスクが、ノルマがあるのだ。仕事を任された責任があるのだ。現実から逃げ出すなど許されない――そう思った途端、灯りが点いた。
 誰が助けてくれるわけでもないのだ。助けを求めているわけでもないのだ。
 音も立てず、目前で扉が開かれる。私はエレベーターを降りる。細い通路が左右へ伸びている。右へ進んだ。痛んだ木製の扉がある。その先に、人の動く気配を感じた。扉を開くと、淀んだ空気と、パソコンのキーボードを叩く音が溢れ出した。私は言った。
「おはようございます」
 見知った首がパソコンの前に並んでいる。そこは職場だった。

 

 

(おわり)

▲top