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溟犬一六のWEB小説

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引っ掛け薬

オーソドックスなショートショート

読了目安:5分


 博士と助手が研究室のテレビを眺めている。
 テレビの中では、チャンピオンベルトを巻いた屈強な男が、グローブをはめた両腕を天高く突き上げている。
「何度見ても最高ですね博士。フェイク山崎の連続KO防衛シーン」
「ふむ。確かに見事じゃな」
「右と見せかけて左! ジャブと見せかけてアッパー! あのフェイントに引っ掛からない奴はいないですよ」
 博士は溜め息をついた。
「昔は確かに見事なものじゃったな。しかし残念じゃが、山崎は二十六を過ぎてから確実に鈍ってきとるよ。奴の自慢のフェイントも対戦相手には研究され尽くされてしまっておる。テレビの再放送では上手く編集されておるが、実際にはなかなか引っ掛かる場面は少ないというのが、本当のところじゃよ。おそらく、明日の試合が見納めになるじゃろ」
「えー、そんなあ……」
「挑戦者は若いし、何よりありゃ天才じゃよ。わしもボクシングは昔からよう見てきたが、あの挑戦者を退けるには、全盛期の頃の山崎でも無理じゃ。それこそ、どんな賢者でも引っ掛かるような、ボクシングの歴史の中でも一番、物凄いフェイントを身につけなければ――」
 その時、研究室の扉が勢い良く開かれた。
「頼む! 引っ掛け薬を売ってくれ!」
 博士と助手は、研究室に飛び込んできた男とテレビ画面とを見比べた。間違いない。フェイク山崎、その人だった。山崎は脇にボストンバッグを抱えている。
「引っ掛け薬のことをどこで聞いたのじゃ」
「俺も長いことチャンピオンをやってる。取り巻きは一クセある奴ばかりになる。遊び場もドス黒く、深くなる……そこで、ある詐欺師と知り合った。あんたの世話になってる奴だよ――頼む。奴は言っていた。あんたの発明品を使えば、論理的にはどんな奴でも引っ掛かるようになるって。俺の衰えた技に、光をくれ!」
「そんな! フェイク山崎、あなたのこと見損ないましたよ!」
 助手は、憧れの山崎が発明品に頼る姿を目の当たりにしてショックを隠せない様子だ。山崎はつらそうな顔で、博士を見つめた。博士は鼻を鳴らした。
「あの落ちこぼれ詐欺師め。まったく口の軽い奴じゃ。――それで山崎よ、いくら出すつもりじゃ」
「博士!」
 すがりつく助手の手を、博士は振り払った。博士は山崎に見えないよう、助手に微笑みながらウインクした。
 山崎は思い詰めた表情で、研究机の上にバッグを置き、博士に中身を見せた。札束の山だ。
「全財産だ。俺には妻も子供もない。親も死んでる。欲しいのは金じゃないんだ」
「欲しいのは勝利だけ、か?」
「俺はボクサーとして伝説を残したいんだ。俺を引退させるのは敗北じゃない。俺を引退させて許されるのは、年齢だけだ」
「ボクシング協会規定の年齢まで勝ち続けるということか。大した根性じゃ――ほれこれじゃ。持ってけ。その瓶に入ったカプセルを一粒飲めば、半日は効果が持続する」
 助手の肩は震えていた。山崎は礼を言い、研究室の扉に消えた。
 我慢しきれなくなったように、助手が吹き出した。
「博士……明日の試合、僕はフェイク山崎を全力で応援しますよ!」
「そうじゃな。あのただの『ビタミン剤』で、もしも勝つようなことがあれば、それは山崎の熱い心が生み出した、真の実力じゃて」
 まんまと偽物をつかませた博士だったが、少々声が大き過ぎた。研究室の扉が乱暴に開かれる。
「聞いたぞコラァッ!」
「げげっ!」
 山崎が研究室へ怒鳴り込んで来た。凍りつく博士と助手。
「とんでもねえタヌキジジイだぜ!」
「ま、まあ待て山崎。論理的に考えんか。チャンピオンが詐欺師と同じ道を歩んではならんよ」
「うるせえ早く本物をよこせ!」
 胸ぐらをつかまれ、博士はやむなく本物の引っ掛け薬を山崎に渡した。山崎は去り際に言った。
「罵ってもらって構わない。俺は最低のボクサーだ。だが、俺は勝ち続けるぜ……」
 山崎の去った研究室で、博士と助手は肩を落とした。
「残念です。僕のフェイクが、本当に悪の道に落ちてしまった」
「ああ。まったくもって残念じゃわい」
「でも、このことを知らない少年たちにとっては、フェイクが伝説になることは決して悪いことじゃないですよね? せめて、引退まで何回も勝ち続けてくれれば――」
「いや、そりゃ無理じゃよ」
「え?」
「論理は事実には勝てないのじゃよ」
 
 翌日、フェイク山崎はドーピング検査に引っ掛かった。

 

 

(おわり)

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