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溟犬一六のWEB小説

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助かる隣人

オーソドックスなショートショート

読了目安:10分


 春。不要な品を売り払い、七階建てワンルームマンションの二階に越して起業した。埃の臭いの染みついた、陰気な部屋だった。
 覚悟しての起業とはいえ、不安はやはりあった。操業間もなくは、ただがむしゃらだった。ほどなくして店は軌道に乗り、火の車の恐れはなくなった。仕事が楽しいなど、サラリーマン時代には考えられなかったことだ。身も心も軽くなり、世界が違って感じられる。
 余裕のできた私は今、隣人の存在が気に掛かるようになった。隣人との面識はない。玄関口に表札がないために姓も分からない。
 私が隣人を感じるのは決まって真夜中だった。薄い壁から聞こえる生活音と声質から、隣人は若い男性だと思われた。
『もう嫌だ』
 それが隣人の口癖だ。隣人はいつも疲れていた。隣人の帰宅は午前零時をまわってからだった。隣室の扉が閉まる音で目を覚ます、ということが度々あり、そして彼のネガティブな口癖を聞くはめになっていた。
 隣人は、いわゆるブラック会社に勤めているのかもしれない。休日もお構いなしに夜遅くに帰ってくるというのに、私が日中活動している時には、すでに会社へ行っているのだろう。隣人の気配を感じることが出来なかった。
 隣人の口癖はもう一つある。
『大丈夫だよ』
 電話中の口癖だった。
『大丈夫だよカオリ。上手くやってる』
 痛々しい言葉だった。カオリさんとやらがもし、隣人の「もう嫌だ」を聞いたら、きっと飛んで駆けつけてくれるだろうに。私は隣人の強がりを聞くたびに、溜め息が出るのだ。
 
 もうすぐ起業から一年が経つ。春が近付き、私の事業が旨くいくほどに、隣人は追い詰められていくようだった。
 真夜中、隣室から響く、扉の閉まる音で目が覚めた。もう三月だというのに、室内はひび割れるように寒かった。午前三時だった。
 不規則な足音が鳴り、すぐ横の壁からベッドの軋む音がした。
『もう嫌だ』
 呪いのような声から逃れるように、私は寝返りを打った。
『しにたい』
 私は跳ね起きて隣室の壁を見つめた。今、彼は死にたいと言っただろうか。
『死にたい』
 確かに言った。何だ。どうする。私はどうしたら良い。もし何もしなければ、彼を見殺しにしたら、私は罪に問われるだろうか。喉が干からびる。嫌な汗が背中を伝う。
『もしもし、カオリ――』
 隣人は電話を掛け始めたようだ。詳しい内容は聞き取れないが、弱々しくも真剣な口調から、本音を吐き出しているように察せられる。徐々に、聞こえる声が大きくなっていく。
 
『ごめん。俺、死ぬわ』
 
 玄関へと走る音。扉を開け放す音。
 私は息を吸い、外へと走り出た。まだそう遠くへは行っていないはずだ。この二階からであれば、もう地上へ下りたろうか。落下防止柵を掴み、地上に広がる闇に目を凝らす。マンションから通りに出るために必ず使うはずの道をしばし睨んだが、隣人らしき姿はない。耳を澄ますが、駆ける足音もない。
 エレベーターは五階を示して止まっている。五階? エレベーターは使われていない。私は矢も盾もたまらず、屋上へと階段を駆けた。屋上への扉には南京錠が掛かっており、立入禁止の、痛んだ貼り紙がされていた。
 呼吸が苦しい。膝に両手をつき、肩で息をした。
 どこへ行ったのだ。警察に通報するか? いや、いくらなんでも早計だ。まだ自殺すると決まったわけではない……決まっていないだろうか?
 私は悄然と二階へ戻った。隣室のドアノブに手を掛ける。手の平に感じるざらつきが怖いほどに冷たい。鍵が掛かっている。仕方なく自室へ戻った。
 その後数時間、隣室からは何の物音も聞こえてこなかった。隣人は携帯電話を持って行ったということだろうか。カオリさんは彼を追っているだろうか。
 空が白んできた。雀の声が聞こえると、疲れが吹き出してきた。私はくずおれるように横になった。これでは仕事どころではない。
 ああ、彼は無事だろうか。こんなことになるなら、もっと早くから相談に乗ってやるべきだった――もう嫌だ。彼の口癖が、今では救難信号に聞こえてならなかった。もう遅いだろうか。そうだ、彼が無事なら、今の仕事を辞めさせて、私の事業で使ってやるのはどうだろうか――。
 
 ――霧のかかる頭で、ようやく気付いた。隣室が騒々しい。外へ飛び出した。
 真っ白な日差しが目に痛かった。私は自室の扉の前で立ちすくんだ。開け放しの隣室へ引越し屋とおぼしき作業服の男が往来している。やがて隣室から、別の若い男が出てきた。シャツにジーンズの、ラフな服装の青年だ。男は私に気付き、声を掛けてくる。
「もしかして、お隣の方ですか?」
 聞き覚えのある声だ。聞き違えるはずがない。隣人の声だ! 言葉を詰まらせ頷くと、隣人の背後から小柄な女性が顔を覗かせた。ショートカットの、愛嬌のある顔立ちをしている。パンツルックで活動的な印象だ。大学生か、いや高校生かもしれない。
「あ、コイツは妹のカオリっていいます。今日は引越しを手伝ってもらおうと思いまして」
 カオリ……電話相手の女性の名だ。そうか。兄妹を交互に見ながら、私は心底安堵した。自殺を思い止まった隣人は、おそらく悪環境の会社を辞める決心をつけたのだろう。実家にでも帰って、新しい人生を歩むのかもしれない。
 隣人の顔は生気に満ちているように感じられた。私も、会社を辞めた時はこんな顔をしたのだろうか。隣人は頭を下げた。
「これからよろしくお願いします」
 隣人が笑顔で名乗ると、カオリさんはドアの横を示した。「こういう字です」ということだろう。小奇麗な表札がそこにあった。
 隣人はさわやかに引越し業者へ指示を出した。私は、部屋へ運び込まれるベッドを眺めながら、わけも分からず、悩み事があったら何でも相談しなさいと、気付けば叫んでいた。

 

 

(おわり)

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