WRITE THE LIGHT

溟犬一六のWEB小説

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待ちわびた三人

オーソドックスなショートショート

読了目安:5分


 とある大学に設置された、男子学生寮での出来事である。
 六畳間の居室にて、寮生三人による飲み会が行われた際、グラスが一つ、ひとりでに割れるという事件があった。幸いにも、割れたグラスの持ち主はトイレに立っていたために、怪我人は出なかった。
 午前三時に三人で酒を飲んではいけない。幽霊がグラスを叩き割るぞ――そんな噂に多くの寮生が震え上がる中、怪談好きのAは同好の友人を誘い、現象を再現しようと考えた。
 しかしAには心配事があった。
 グラスが割れた時、誰かが手指を切ってしまったらどうしよう……。
 Aは血が苦手だった。怪我の確率は少しでも低くしたい。紙コップを用意することも考えたが、飲み会の雰囲気を損なうことで、幽霊が現れないということも考えられる。悩んだ末、Aは苦肉の策に出た。
 
「よし、これで準備完了だ」
 Aの自室。グラスが三つ置かれたちゃぶ台のすぐ横には、巨大な救急箱が用意されている。寮管理者に無理を言って貸し出してもらった代物だった。周囲でその様子を見ていた寮生たちは、「何もそこまでしなくても」とあきれていた。
 三つのグラスになみなみと日本酒が注がれた。Aたちは置き時計の秒針を見つめ、張り詰めてゆく空気に、やがて喉仏を大きく動かした。Aが口を開く。
「いよいよ僕たちの待ちわびた時間だ。おっと、危ないからグラスを持たないでくれよ」
 時計の針が午前三時を示した。Aたちは背すじに冷たいものを感じ、肩を強張らせた。室内の温度が急激に下がっていくように感じられる。しかし、グラスが割れる事はなかった。
 それぞれの口から溜め息が漏れた。Aは首を振り、たどたどしく言った。
「な、何も起こらないな……。ふん、つまらない。幽霊に会えると期待していたのに」
「よく言うぜ。内心はほっとしてるだろう」
「あはは。本当だ、顔が真っ青だよ」
 Aは友人の言う通り、内心はほっとしていた。ばつが悪くなり、強がりを言った。
「や、やっぱり条件がまずかったのかもしれない。また日を改めてやってみようか」
「無理すんなって。血を見たくないんだろう? それに、運良く怪我せず済んだとしても、グラスが割れたら後始末が大変だ。残念だが、もう忘れようぜ」
「僕はもう一度やって欲しいな。幽霊だって、グラスを割るなんて物騒なことしないでしょう。もっとも、うっかりグラスを落として割ってしまうなんてことは、あるかもしれないけど」
 友人の言葉にAは悩んだ。血は見たくないが、幽霊は見たい。不可思議な怪現象を体験してみたい。
「……リトライするかどうかは後で考えよう。ひとまず今日のところは、この酒を飲んでお開きにしよう」
「そうだな。さすがにもう眠いし、イッキで飲んじまおうぜ」
「待ちわびたよ。さあ乾杯しよう」
 Aたちはそれぞれ、グラスを手に取った。その場に座り込んだ格好のまま、視線を交わし合った。緊張のせいかひどく疲れてしまって、グラスを当てる気にならなかった。
「乾杯……」
 目をつぶり、酒を一息に飲み込んだ。Aは手の中のグラスに向けて顔をしかめた後、天井を仰いだ。
「これは、物凄くマズいな」
「まったくだ。安物なだけある」
「そう? 僕はけっこう好きだけどな。ごちそうさま」
「酒がマズいと幽霊は現れない――なんて条件はないだろうな」
「グルメな幽霊なんて、貧乏学生が集まる寮には寄りつかんだろう」
 大あくびをする友人に、Aは言った。
「ところで君は、もう一杯飲む元気はあるか?」
「勘弁してくれ。言い出しっぺはお前なんだから、残った酒は自分で処理しろよな」
 友人が顎でちゃぶ台を示した。そこには三つ目のグラスが置かれている。数秒の沈黙を経て、Aたち二人は互いの顔を見合わせた。
「ど、どうして空になっているんだ……」
 血を見る確率を少しでも低くするため、Aは「三人で酒を飲む」という条件を満たさなかったのだが、どうやら幽霊は現れていたようだ。
 
 この日から幽霊の噂は、いくぶん親しみを込めて囁かれるようになった。
 午前三時に酒の入ったグラスを放っておいてはいけない。酒好きの幽霊に飲まれてしまうぞ――。

 

 

(おわり)

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