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溟犬一六のWEB小説

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スーツを抱えたスーツの男

雰囲気系ショートショート

読了目安:10分


 赤だ。ブレーキを踏んだ。
「またか。ついてないな」
 今日はやけに赤信号に引っ掛かる。スーパーから自宅までたかだか十分程度だというのに。もう三度目かもしれない。
 くぐもった軽妙な音楽が流れる。一人のサラリーマン風の男が前を横切っていく。左手にビジネスバッグを提げ、右手にスーツを抱えている。
 私はおや、と思った。その男は上下スーツ姿だった。にもかかわらず、彼はスーツの上着を抱えている。横断歩道を渡り切った男はすぐ近くのマンションの玄関に消えて行った。
 青信号になり、私は車を走らせた。エンジン音を聞きながら、私は先程の男のことを考えていた。なぜ、スーツを着た男がスーツを抱えているのだろう。
 あの男はマンションに入って行ったから、上着をクリーニングに持っていく訳でもないだろう。クリーニングから受け取ったのなら、上着は専用の袋に入っているはずだ。
 交差点を左折した。幾本かの街灯が流れ過ぎて行く――。
 
 ふと、昔を思い出した。まだ私が自営業をはじめる前、SE会社に勤めていた時のことだ。二十代の前半、十月の始めのことだった。普段は社内でプラグラミングを担当していたが、その日は先輩について客先に出向いた。何をしに行ったかは覚えていないが、客と顔を合わせるのはとにかく疲れた。先輩を乗せて社用車を運転するというのも、ペーパードライバーの私にとっては酷く心の擦れる作業だった。
 仕事を終え会社に向かい始めた頃にはもう夜九時を回っていた。これから車にガソリンを入れ、会社から離れた駐車場へ車を置きに行くことを思うと溜め息が出そうだった。そんなタイミングで、先輩が声を掛けた。
「疲れたろう。車は俺が返しておくから、お前はもう帰っていいよ。家、すぐ近くだよな」
 申し訳なく思いながら、私は先輩の言葉に甘えた。
 帰宅の途中、私は何度も溜め息をついた。仕事に疲れていた。思い描いていた人生とは違っていた。二十代の私にとって、あの頃は生きていると呼べない時期だったろう。全てが無気力だった。
 翌日、私は会社へ向かう準備をしていて、ようやく上着がないことに気付いた。車へ置き忘れたのだ。私はもう一着の上着を着て、会社へ向かった。
 忘れた上着は、先輩が車から取っておいてくれていた。
 
 ――エンジン音が続いている。
「あれは、私か……」
 先輩から上着を受け取り、その日はスーツを着て、上着を抱えて帰った。まさに先程の男のような格好だ。
「あの日だな。私が交通事故に遭ったのは」
 私は呟いた。交差点が近付いてくる。右折すると自宅のある道へ出る。
 私は左折した。
 胸が気持ち悪かった。しかし同時に、初恋を思い出したような懐かしい窮屈さも感じられた。
 二十代のスーツ姿の私は、あの日スーツを抱え、帰宅途中に信号無視の車に轢かれた。コンビニのある広い通りだったが、目撃者はいなかった。
 運転手が自供したのだ。信号無視を犯し、横断中の私に気付かずブレーキが遅れた。悪いのは全て自分だと自供した――私はそう聞いている。ブレーキの痕から見ても、運転手に過失があることは明らかだったそうだ。
「しかし、私は轢かれに行った」
 車の信号は確かに赤だった。あの時、セダン車が速度を増して交差点に近付いていることに、私は気付いていたのだ。
 ――ああ、この車は信号無視をするぞ。そう感じた私は、だからこそ飛び出したのだ。轢かれに行ったのだ。そういった後ろめたさがあり、私は運転手との面会を拒否した。
 あのどさくさに紛れて、私は会社を辞めてしまった。
「死にたかった訳ではない。きっかけが欲しかったのだ」
 私は自分に説明した。仕事を変えれば人生が変わる。そんな単純な話ではないと頭では分かっていた。しかしどうにも我慢出来なかった。感情を抑えられず、私は飛び出した。きっかけが欲しかった。仕事に穴を開ければ、私がいなくても仕事に支障がないと会社に伝われば、辞めるのも容易になる。
 飛び出した瞬間のことを、私は確かに覚えている。私は満面の笑みを作って飛び出したのだ。運転手の顔は見えなかったが、運転手からは私の顔が見えたはずだ。
 私は右手でハンドルを握ったまま、左手で顎を撫でた。鼻息が荒くなる。当時からずっと感じている不安が、胸を掻き乱す。
 あの運転手は、私の思惑に気付いていたのではないか。広い道だ。ブレーキを踏みハンドルを切れば、私をかわすことも出来たはずではないか……。
 私は、あの運転手に果たして感謝しているだろうか。会社を辞めて、両親に申し訳ない気持ちはあったが呼吸は楽になり、世界が違って見えた。しかし今は、どうだ。田舎町のパソコン教室など大した金にもならない。馬鹿な年寄りは年々減っていく。先のない商売だ。あのままただでかいだけの会社で飼われていた方が、楽な人生を送れたのではないか――いや、所詮、私は私だ。どこをどう流れても、私は何も変わらない。ゴミ虫の人生だろう。そう、どこをどう流れても……。
 しかし、あの日の私は、その流れを選ぶ瞬間すら、他人任せにしてしまったのだ。
 どこをどう曲がったのか、車はコンビニのある広い通りに出た。真っ直ぐ続く道の向こうの信号は青だ。すぐに黄色に変わる。私はアクセルを踏み速度を上げる。近付く信号が赤に変わる。横断歩道には信号待ちをしている一人の男がいる。彼はこちらに気付いたようだ。
 交差点が迫る。私は男を凝視し、アクセルをさらに踏み込む。男が目を見開き、こちらに笑みを向け飛び出した。
 ブレーキを響かせ、揺れる車体を制御し、私は笑った。ミラーの中で小さくなっていく、中指を立てる男が、私はたまらなく羨ましい。

 

 

(おわり)

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